気づいたら、また「私はこうあるべき」と自分に言い聞かせていませんか?
あなたが信じてきた“わたし”が、もし幻だったとしたらどうしますか。
それを手放すことが、いちばん大きな安心につながるとしたら——?
自分がわからない——その苦しみは“目醒め”の始まり
「私はこういう人間だから」「私には無理だから」
——その“私”って、いったい誰が決めたのでしょうか。
ほとんどの人は、自分のアイデンティティをこうした“思考”や“記憶”で語ります。
- 過去の経験
- 他人から言われたこと
- 失敗した時の感情
- 成功できなかった理由
そうした情報があなたの「わたし像」をつくり、知らず知らずのうちにあなたの人生を縛っているのです。
スピリチュアル教師エックハルト・トールは、こう語ります。
「人はほとんど、自分が“思考”でできていると信じて生きている。でも本当のあなたは、その思考を見つめる“気づき”そのものである」
彼の言葉は、スピリチュアルの枠を超え、生き方そのものに革命を起こすほどの深さを持っています。
あなたが今感じている「本当の私がわからない」というモヤモヤは、
偽りの“わたし”からの脱出を促すサインなのです。
アイデンティティの罠——“わたし”という仮面の正体
あなたが日々使っている「私」という言葉。
その「私」は、どこから来たのでしょう?
エックハルト・トールはそれを「形のアイデンティティ(Form Identity)」と呼びました。
それは以下のような要素で成り立っています。
- 肉体(容姿、体型、病気など)
- 思考(記憶、信念、価値観)
- 感情(怒り、悲しみ、恐れなど)
- 社会的ラベル(名前、性別、職業、役割)
これらすべては過去の記憶に基づいた条件づけにすぎません。
つまり、あなたが「これが私」と信じているものは、すべて“過去のコピー”なのです。
そのため、「私はずっとこのままなんだ」と思っている限り、
あなたは“過去”の中でしか生きられなくなります。
しかも、その“わたし”は終わりなき「不足感」をあなたに感じさせ続けます。
- もっと頑張らなきゃ
- まだ足りない
- 人より劣っている
- 完璧じゃないとダメ
そんな無限ループに入り込んだまま、心も体も疲れ果ててしまうのです。
もしこのまま、“わたし”という仮面にしがみつき続けたら——
あなたの人生は、ずっと「本当のあなた」が現れることなく終わってしまいます。
“本当の私”はどこにいる?——静けさの中にあるもうひとりのあなた
では、「わたしではない私」とは、いったい誰なのでしょうか。
それは、“気づいている存在”としてのあなたです。
思考や感情ではなく、それらを観察している「意識」そのもの。
それは静かで、透明で、なにも語りません。
でも、それは確かに“そこにある”のです。
- 悲しいときに「悲しんでいる自分」を見ている何か
- 迷っているときに「迷っている思考」を感じている何か
- 嬉しいときに「嬉しさを味わっている自分」を認識している何か
それこそが、本質のアイデンティティ(Essence Identity)です。
それは、いつもあなたと共にいます。
でも、あまりに静かで目立たないから、見逃されているだけなのです。
“I”を手放すとき、人生は始まり出す
「わたしって誰?」という問いは、実は答えを求めてはいけない問いです。
なぜなら、答えを求めた瞬間、また新しい“形”をつくってしまうから。
本当の自由は、「わたしというイメージ」を探し続けることではなく、
その探す行為そのものを手放すことから始まります。
仏陀は「dukkha(苦)」という言葉で、人生の本質を表しました。
それは、「何をしても、どこへ行っても、心が満たされない感覚」です。
- 手に入れても、すぐに飽きる
- 愛されても、不安になる
- 成功しても、虚しさが残る
なぜなら、どこまでも「形の自分」にしがみついているからです。
でも、それを手放したとき、あなたはこう感じ始めます。
- 今ここにいるだけで、充分だった
- 誰にも認められなくても、自分がいる
- もう「何者か」にならなくていい
この“軽さ”こそが、ほんとうの自由なのです。
まとめ
「わたしって誰?」と問うとき、多くの人は答えを思考で探そうとします。
でもその「思考の私」こそが、あなたを苦しめる正体でした。
あなたの本質は、静けさの中でただ在る“気づき”そのものです。
それはラベルでも感情でもなく、常に“今ここ”にある静かな存在です。
だからこそ、あなたは何かになろうとしなくていいのです。
そのとき、人生ははじめてあなた自身のものになります。
探すのではなく、ただ“今ここに在る”——
それだけで、十分に“あなた”なのです。